FED

<- prev | next ->

ジェルジンスキーのFED

 「昔は良かった」

と、しみじみ言ってしまうと、読者の方は私はたいそう歳がいっていると思われてしまうかも知れないが、まだそんなことを言えた歳ではない。しかし、FED-1を見ていると、そんな気がするのだ。

 FEDというのは時代を追う毎にダメになっていく。現行製品であるFED-5シリーズとこのFED-1を比べていただくと、私の言っていることもあながち間違いではない、と理解していただけると思う。あちらはやっぱりなれの果て、そんな気がしてしまう。

 私の手元にあるカメラというのは、基本的には売り物。いつかは私の手を離れていくもので、買い手がつけば幾ばくかのお金様と引き替えに私の手元から去っていく。まさにドナドナ状態。私はカメラを最終チェックをして梱包するとき、たまに

「ドナドナ、ドナァー、子牛を乗せて♪、ドナドナ、ドナァー、荷馬車が走る♪♪」

と歌ってしまうときがある。悲しい歌だ。たぶん私の世代なら小学校の音楽の授業で習ったはずだ。知らない人は敢えて調べなくても良いと思う。

 気に入ったカメラとの別れはかなり辛いものがある。

 まぁ、そんなことはとりあえずどっちでもいいけど、FED-1はZorki-1に比べて製造年代が古いからなかなか美品に出会える可能性は少ない。ちなみに工作精度もZorki-1の方が若干上である。ちなみにZorkiはガブリロフという技術者がウクライナのハリコフにあるFED工場からモスクワ郊外のクラスノゴルスクにFEDの技術を移転して生産したのが始まりである。

 で、FEDはどうであるかというと、私も詳しくは知らない、というか、資料にはズラリと書いてあるのだが、英語を読むのが面倒なので、そのままにしてある。私は英語は仕方なく使っているだけのことで、ハッキリ言うと嫌いな言語だ。でもこれではFEDのページを濁すことができないので、ちょっとだけ我慢して英語を読んでみた。

 FEDとは、Felix Edmundovich Dzerjinskiという、初代秘密警察(KGBの前身)署長の名前からとられている。つまりジェルジンスキーのカメラ。

 この説明で納得していただける読者の方は少ないと思う。大丈夫、私もわからない。でも、これ以上追求しないで欲しい。

 ライカのコピーなので、ソビエトの香りはあまり漂っていないが、それでもこれだけのモノが作れたのだからソビエトは立派だった。今のウクライナではまず無理だろう。今のロシアやウクライナの体たらくを見ていると、私はいつも赤い星を思い浮かべ、悔しくて涙が出てくる。ついでにウォトカの瓶をひっつかんで、そのまま一口ガブリとラッパ飲みしてしまう。胃にアルコールがしみて、余計情けなくなったりする。で、そのまま飲んでいると、なぜほとんど右翼の思考を持った私が、ウォトカ飲みながら共産主義懐古しているのか、自分でもよくわけが分からなくなるが、この際何でも良い。私の希望としては

「もう一度ソビエトを再統合してくれ」(ここだけの話だけど、北方領土は返さなくてもいいよ...)

「中国はもう一度鎖国して文化大革命をやってくれ」

「一年に一回は中ソ国境でいざこざを起こして楽しませて欲しい」

「私にレーニン勲章を授与して欲しい」

「Zorki-4を再生産して欲しい」

 で、そんなことはいいけど、FED-1はもう、何といいましょうか、バルナックライカのコピー。見ただけでわかってしまうんだけど...。で、そうなると、FEDのインドゥスタールはエルマーのコピーとなるだろう。きっと間違いないだろうな。でも、FEDは個体差が激しいからいつもいつもエルマー並のものに当たるかどうかは難しいところだろう。しかし、私のようにオリジナルエルマーを使ったことがない人間は、それがアタリなのかハズレなのかわからない、これは悲しいことかも知れないが、ある意味幸せなことかも知れない。

 しかし、このFEDの沈胴インドゥスタールは巷でも非常に評判がよい。プロの方に買っていただいたが

「こんなによく写るインドゥスタールは初めてだ」

という評価をいただいたし、また違うところでは

「オリジナルと同等ぐらいに写ってしまうので、イヤになっちゃう」

という評価も聞いている。全部私が言っていることではない。私も非常にシャープに写るレンズだと思う。作例を見ていただければご理解いただけると思うが、撮れたものによっては非常に立体的な感じさえする。もちろん逆光には弱い。専用のフードというのが存在するのだが、レンズの構造上フードをつけると絞りリングがとても回し辛くなるのが難点。

 レンズの方はさておき、FED-1というのは非常にバリエーションが多く、私はひっくるめてFED-1と呼んでいるが、これは実は正しくない。ただのFEDが本当である。1932年の Fed Original:Leica 1aのコピーから始まって、実にさまざまなバリエーションがある。変わったところでは Fed TSVVSというコンタックスマウントのものまである。

 FEDもFED-2になるとほとんど別のカメラの形相を帯びてきて、FED-3から独自の進化があり、どんどん格好悪く、しかも品質は落ちていく。ソビエトカメラ栄枯盛衰を見ているような気がしてくる。その一方KMZ製品はどんどん発展し、Zorki-4で完成・昇華したのと比べると非常に興味深くもある。つまり、FEDを見ていると

「昔は良かった」

と言いたくもなるのだ。

 さて、FEDの使用感であるが、もちろんバルナック・ライカ・コピーなので、現代人には非常に使いづらいといっても良いだろう。

「こういうモノが実用品になるかどうか?」

とよく聞かれるが、私は何とも答えようがない。何といってもクラッシックカメラである。しかし私は充分実用として使っている。私は写真はカメラの性能の範囲で撮れればよい程度にしか考えていないので、

「晴れた日にISO400フィルムをいれて、絞り開放で打ちたい」

とかが出来なければ実用ではない、と仰るのならこのカメラは絶対に実用にはならない。それはクラッシックカメラを使う上ではちょっと贅沢な悩みであろう。ぜひコシナベッサか安原一式をお求めいただきたい。

 私はシャッタースピードが 1/200までしかなく、しかもピント目測の6x6カメラ Zeiss Nettarを使っても、意地でも使い倒し、何とか写真を撮って

「スナップショットなら充分実用になる」

と騒いでいるから私の意見というのはあまり意味をなさないかも知れない。

 私にとって、クラッシックカメラは

不便=使い倒す楽しみ、であり、

不便=悪い、ではない。

その他、みんなあまり気付いていないが、失敗する楽しみもある。フィルム装填をきちんとやらないと失敗して

「あぁ、畜生!この野郎、バカヤロー」

と一人で悔しがって地団駄踏むことになる。大事な写真なんか撮って、写っていなかったりしたら、後で訊かれたときに

「あれ、実は、失敗しちゃってさぁ、...写っていなかったんだよ...」

と恥をかく楽しみもある。あまり楽しみになっていない、と思われるかも知れないが、何の苦労もせずにきちんとした写真が撮れるこの時勢で、昔ながらに失敗するなんて貴重な体験だと思うよ。散々失敗を繰り返して、その後うまくいったときの喜びはまた格別なんじゃないかなぁ。失敗しながら試行錯誤して身につけたことは忘れないし、失敗をその過程としていろいろなことが自然に覚えられることはいいことだと思うけどなぁ。

 「總是人們話説青春:酸甜苦辣、滋味難分」

 青春は「酸っぱい、甘い、苦い、辛い」、すべて渾然一体で分けがたいものだ。

 その証拠に、私の友人でAFオート一眼レフに高倍率ズームレンズという組み合わせをこの5年間使っているものがいるが、被写界深度、絞りの効果、などなーんにも理解していない。写真もちっとも上達しないので、本人もイヤになって、最近はオートボーイしか使わなくなった。これはある意味正しい選択かも知れない。

 道楽で写真を撮っているなら失敗はいくらでも許されるんだから、ちょっとぐらい苦労したって、失敗したっていいじゃないか、と大きな気持を持って写真を撮っていただきたいところである。

 それでは成功を祈る。